ことば
言葉なるものがいつ頃できてきたものか詳しくは知らないけど、実際の生活ではそれほど必要としないことが分かってきたのは最近のことだ。海外旅行をしていて一番苦労したのはイギリスで、何でも言葉でコミュニケーションをとろうとしたのが失敗で、絶えずパードンの連続、もちろんこちらもパードンの連発ではあったが、要するに相手の綺麗な英語がこちらの耳に良く入ってはくるのだけれど、それらはすぐにどこかに消えてしまったのである。大脳で日本語に置き換わり、そしてその日本語がイメージ化されてこちらの感性に伝わるまで時間がかかりすぎたのだ。しかし言葉なんぞで絶対意志の疎通など無理なスペインのカタローニヤの田舎では、意外なほどコミュニケーションは楽にとれた。シー(イエス)とノン(ノー)の二つの言葉と身振り手振りだけで。正しく恋愛関係にある男女のようにだ。
業務用語中心の生活だけをしていると、”生きた言葉”を見失う様な気がする。生きた言葉が無いと自分の中で思惟のイメージ化という作業ができないし、それはさらに夢、ビジョン、理想というものを互いに語ることすらできないような気がする。業務用語は、単なる道具としての記号に過ぎない。時には生きた言葉で業務を語ることも必要な気がする。”生きた言葉”の典型はポエムであろうが、そこには音楽や絵画が息づいている。そうした”生きた言葉”を使わない限り市民との間でも、さらに恐ろしいことに、家族との間でも心の交流は途絶えてしまう。”記号化された業務用語”の必要性はさておき、”生きた言葉”を自分のものにしていくのも重要な気がする。
もしも、生きた言葉を知らない人がいたなら、そしてそのような人が教師とか、医師とか、または行政のトップの方にいたなら、そんなことを思うと視界の中には秋雨がふりだす。業務用語を生きた言葉に変換する作業には感性が必要だ。その感性の表面を鋭利にするためには多くの知識が必要だ。
バブルの時代、感性は必要はなかった。だからバブルが溢れたのだ。今、バブル(泡)が消え去って、中身が何もないのに気づいている人々はどれだけいるのだろうか。