音楽と感性
音楽に耳を傾けていると不思議に思うことがある。それなりに自分の感性でとらえることができ、そして、それはそれで正しいのだろうが、ときにふとこの音楽は300年前に創られたのだと意識すると妙に不思議な思いがする。自分が感激しているこの旋律は300年前の人も同じような感性で捉えて感激したのだろうか?もしそうならばこの300年間という人の社会の変化は人の感性に何も影響をしなかったのだろうか?それとも自分が感激している曲の部分は昔の人はそれほど感激はしていなかったのだろうか?等と色々考え出す。
この問題は演奏方法の上でも極めて重要なのは分かっている。昔の人の感性で楽譜を音に再現することは不可能なことである(もちろんそのような分野やそういうことを試みている人々がいるこは分かってはいる)。現代人の感性で楽譜を再現することが主流となっている今日、それは極めて当然なことだとは思うけど、やはり感激する部分はどのように演奏方法が変化しても、本質的にはそれほど変わりはない。例えばバッハのチェンバロ曲を古風なチェンバロで古風な演奏をしても、グールドがピアノで現代的に演奏しても、好きなものには変わりはない。もちろん自分の感性が捉えていた中間部の旋律やバスの旋律の動きが、ある人の演奏では地味な動きになっていて残念に思うなどということはあるが、だからといって曲の魅力が半減してしまうほどのことはない。
そう考えると音楽の基本的な部分(作曲技法のことではなく、何を表現したいかという)は時代に関係なく共通しているのではないかと感じだす。そうでなければルネッサンスからバロックにおけるリュート曲や歌曲が現代でも十分通じるという現象を理解出来ないのだ。そうなると作曲家達が生きていた時代はどんな時代だったのか、人々は何を求め、何に苦しんでいたのか、そして求める理想とは何であったのか、等の知識が必要になってくる。堅い言葉でいえば作品が創られた時代的背景ということになるが、文学的表現をすれば、300年前も今も人々が抱く思いの根幹部分は、もしかすると同質なのではないだろうか?という疑問なのだ。
300年前の人々はペストが流行したら簡単に死んでゆき、戦が始まると簡単に殺され、そして結婚して子供が生まれても、その子が生きながらえる確率は現代の数分の一に過ぎなかったのだ。そうした時代に生きた人々が創り、そして聞き続けた音楽を現代の我々も聞き続けるとは、非常に不思議な思いを抱かないだろうか?美しい夕焼けに感動するように、時代を超えて人間の心に入り込むエッセンスが音楽の中にあるとしか思えない。それは他の芸術でも同じことなのだろうが。
音楽の作曲様式は人間の感性の複雑化と共に変化してゆく。人間の感性とは古いものの上に、新しい感性が衣を着けるがごとく、層状に加わってゆくということであろうから、古い時代の音楽をも現代の我々の感性は捉えることが出来る。一方現代に近くなってくると、作曲家の感性が時代をある程度先取りしている場合があるから、いまだ理解しがたいという現象が現れる。また音楽に馴染んでいない人の場合、ある時代までの音楽は捉えることが出来てもそれ以降の音楽は、その人の感性では捉えることが出来ない場合も多い。
一般的にバロックまでの音楽は多くの人の感性は捉えることが出来るようだ。そのような人達はさらに古典派の音楽を多く聴くことによって、その感性を古典派時代まで進ませることができる。それでも今から200年前である。
旋律は誰もがその感性で捉えることが出来る。その旋律が音楽の中心であった時代は、ロマン派までであった。それ以降の社会に生きる人間には、音により芸術作品を創造しようと試みる場合、旋律だけでは不可能である。社会全体が(我々が生きている環境という意味において)複雑化していて、我々の感性は旋律だけではなく、もっと多様な音による感性への問いかけを必要とする。それは創造する側においてさらに真実である。絵画、詩、小説においても全く同じである。時代の中で我々の感性が何かを創造しようとしたとき、それは過去の芸術作品から先に進むのである。
鑑賞する側において、過去の芸術作品は、我々の厚着している感性の中心に近い部分で感じ取れる。それはより我々の心の芯に近いという意味で『やすらぎ』に通じる。一方、より近い時代の芸術作品は、我々の感性に磨きをかけるという意味で重要なことである。感性に磨きをかけなければ現代に生きているという実存の証拠にならない(現代を認識出来ないのである)。