わかるということ
自分が分かる、相手に分かってもらう。それはコミュニケーションの基本だ。自分は日本語で話す、そして相手がうなずく。いつも自分の目の前で展開される光景だ。
自分は分かったと思う。そして相手も分かったと思う。日本語で話し合い、そして分かり合う。それは、一見当たり前のように誰でも思っている。
しかし、それは正しい認識ではないことは誰でも知っている。うなずきはする、しかしそれは了解のしぐさではないのだ。それではなぜうなずくのだろうか。
言葉の意味は伝わる。または伝わってくる。しかし伝えたいことは、言葉と言葉の間にあるのだ。言葉の意味を理解するから、お互いにうなずきあっているに過ぎない。
僕は君が好きだ、と言ったとき、僕は瞬間的に相手の中に自分の理想を見ている。だから、好きだ、という言葉を使うことは正しい。しかし、その理想像のビーナスは、好きだ、という言葉を、もっと意味がある、すなわち永遠の愛に近いようなニュアンスで感じる。だから僕と、そのときのビーナスは理解しあえないことになるのだ。(永遠のビーナスなんているわけはないのだから)。
業務のことを熱っぽく語ったとき、周りの人々はうなずくに違いない。しかしそれは同意しているかどうかは疑わしい。なぜなら、そこで熱っぽく語った言葉の意味は理解していても、その言葉の群れの背後に宿るエネルギーまでは伝わりはしないからだ。
エネルギーまで伝わる場合は、聞く人にも同じようなエネルギーが蓄積している場合だ。行政の場合なら、本当に町を良くしたい、と思っている人同士が語り合えば通じる。しかし、相手が本当にそのように思っているのかどうかを知る手段はない。言葉の上でそれを確かめるしかないのだけれど、その言葉を使ったコミュニケーションという手段が怪しいのだから、やっかいだ。
相手が本当に自分のいうことを分かってくれているかどうかを知る唯一の手段は、うなずいてくれた事柄について、自分を犠牲にしてまでも行ってくれるかどうかで判断することだ。
自分の立場を守るため、周りの目を意識して、上司に嫌われないため、など、色々な状況で態度を変える人は多い。しかしそれは卑怯とかずるいとかいうこととは無関係であって、本当は自分の言うことを理解していなかっただけなのだ。単に言葉の意味にうなずいていただけで、自分の言葉の出所に内在するエネルギーは伝わっていなかっただけなのだ。
本当のビーナスに出会ったとき、僕が自分を犠牲にしてまでも、そのビーナスを守るであろう、という状況と同じ。