悩める保健師さん(2)


 ある保健師さんからお手紙をいただいた。私の書いた本を読んでの感想文のような内容です。
私の小説の内容に触れて、ご自分がナース時代のことを思い起こして非常に懐かしく思った、と言うような内容でした。
 ナース時代は非常に緊張した毎日で、そのときは辛いことが多く、結局家庭に入ってから保健師の道を選んだとのことです。ナース時代は私の小説の舞台と同じく、小児病棟勤務で多くの悪性腫瘍の子供達とつき合ったとのこと。小説を読みながら色々と思い起こすことが多く、場面によっては辛くて前に進めなかったこともあったと、書いていました。

 私も大学時代、そして専門病院時代に多くの若いナースと一緒に不治の病の子供達を見守ってきましたから、ナース達の辛さは十分想像できます。
夜中に亡くなった3歳の子供の傍らで泣き崩れた若いナース。
 先生!何とか出来ませんか?と食ってかかってきたナース、下血が続き、何日間も注射器で下血が始まるたびに輸血を繰り返し、そして血小板が増えだし危機を乗り切った子供を見て、昼食をおごってくれたナース。今では全てが懐かしい光景として蘇ってきます。

 お手紙をいただいた保健師さんは、あの頃のような緊張した日々が懐かしい、と言います。そして出来ることなら再びナースの道に戻ろうかと思っています、とメールに書いてありました。
 それは正しく私の気持ちと同じです。書類に判を押して、会議に出て、等の日々と比べると、何と緊張感に満ちていて、自分の生命の躍動感を感じることができた日々だったろうか、と。
 しかし、良く考えると、保健師も保健所長も実は、病院のナースや医師と本当は同じではないだろうか、と思うのです(反省の念を込めて)。私達は地域の健康を見守っているわけで、この地域は患者と等しい対象ではないでしょうか。対象があまりにも大きすぎて、私達はそれを実感できていないだけではないのだろうか、と思うのです。
 この地域は健康なのだろうか?病気を持ってはいないだろうか?病気を持っているとしたなら、それは悪性だろうか、それとも良性だろうか、など

 行政で働く医療関係者は、ともすると法律に従った仕事しかしない傾向にあります。法律は必要最低限の決まり事しか書いていません。
 保健行政とは各種法律に従った業務を遂行することではなく、地域住民の健康の維持、さらには増進を行政の観点に立って行うことと考えます。法律はその骨組みかも知れません。そこに肉付けをしてゆくのが私達の責務と考えられます。
 どのように肉付けしてゆくのか、肉付け次第では地域住民の健康は損なわれる可能性もあります。私達の責任は重大です。患者さん一人の見守りに決して劣らないだけの責任があります。
 地域の健康はどうなっているのだろうか?この地域の健康はこのままで良いのだろうか?
 そのように想いを巡らすと緊張感がわいてきます。
 たしかに自分の抱いた考えを業務という衣に包むのは非常に大変な作業です。衣に包むのを手伝ってくれる仲間がいない場合だってあります。さらにはそれを妨害する力が働く場合も頻繁にあります。
 しかし病院でも、何とか救ってあげたいと思う患者を現代医学では救えないことも非常に多いですから、これもやはり目に見えない業務に対する妨害の力と考えられます。

私達にとって必要な事は、自分達は何を見つめて業務を行うべきか、と言うことのように思います。一人の患者の幸せを願いながら業務を行うのか、それとも地域の幸せを願いながら業務を行うのか。そう考えると本質は同じように思えてきます。
 
 理屈では以上のように考えられます。
 しかし行政の場では自分の行為がなかなか評価されない、または相手に通じない、という戸惑いがあるのも事実です。

 私の仲間の医師達も何で保健所に?と言います。
 私には残念ながら明確な答えはありません。

 しかし内心は、10年後の地域の健康回復(健康増強)のために何とか素晴らしい業務を行ってゆきたいと考えてはいます。

 メールをいただいた保健師さんと同じように、昔の緊張感に満ちた日々を懐かしく思い出すことがあるのも事実です。今はその緊張感を取り戻したいと、心の葛藤が続く日々を過ごしていると言うのが、偽らない答えです、と私は手紙に書きました。

 行政という場、または保健師という仕事は非常に難しいものです、私は難しいものだという意識を持ち続けることが重要だと考えています。