ペットなのか家族なのか


                                                     
犬たちと一緒に生活しだして二十年以上にもなる。その間彼らは世代交代している。現在三頭と一緒に生活しているが、僕には三頭と言うよりも三人と呼んだ方がぴったりするような気がする。特に二人の娘達が遠くに離れてからは、彼らの家の中での行動が全く変わってしまった。

僕と妻が食事を始めようとすると彼らは当たり前の顔をして(そんな表情に見えるのだけど、当たり前の犬顔なのかどうかは確証はないけど)、食卓の周りを囲むのだ。
人が食べるものは味が濃いから良くないと妻は言うのだけど、ボス各のミニチュア・シュナウザー(もう9歳の年長犬だ)が僕のすねを前足で引っ掻く。僕が睨むと横の方に顔を向けてそしらぬ振り。しかし僕がそれを無視していると何度でも続ける。仕方がなく食卓の上の何かを与えると一気に飲み込む。それが二、三回続くと二番目の柴犬が脇からすり寄ってくる。僕が彼に何かを与え始めるとシュナウザーは後ろの方に退いて、その替わりにベアデットコリー(これは一番年下)が大きな身体をすりよせてくる、娘達がいた頃はもっと離れていたのだけど、今では食卓に僕が座る前から彼らは待ちかまえている。

彼らが自分達を僕達人間と違うと思っているのか、それとも巣立った娘達の後釜くらいに思っているのか僕には定かではないが、娘達がいなくなった家中を勝手気ままに歩き回り、そして布団を敷くと僕達が寝る前に三頭は(と言うよりも三人に近い)一緒に布団の上で横たわる。妻が朝起きると三頭一緒に飛び起き、庭に出て空に向かって一斉に吠える。多分、今日も元気だぜ、と周囲に住む仲間達に伝えているのだろう。元気なものだと僕はぼんやりした頭でいつも思う。

このような我が家の同居人(間違いなく僕の感覚では家族であるが)をいつも見ていると、僕は人間の「健康」というものは何なのだろうか、と突然考える。彼らはいつも元気に見える(これも彼らに聞いたわけではないので確証はないが)。心配事がないようにも見える。これについてはいつぞや精神科の同期と電話で話したことがあるが、彼は動物には記憶と言うものがないから将来に対する不安が無いんだ、ともっともらしい講釈をしてくれたが、僕は信じなかった。彼らは今の僕よりもはるかに記憶力はいい。僕は彼らがいつも元気でいられるのは、「死」というものを知らないからだと考えている。「死」なるものを知らなければ、釈迦だって修業に入らなかったはずだ。なぜなら彼は病苦と死に対する不安を乗り越えるために出家したからだ。

そのようなことを考えているうちに僕は彼らが悟りを開いた修業僧のようにも思えてくることがある。以前住んでいた二頭の犬達も死に際が良かった。死の前の日、歩けもしないくせに一緒に散歩に連れてゆけと駄々をこねさえした。そして夜中に息が荒くなると同時に死んだ。人間なら点滴や人工呼吸器をつけられていたことだろう。

我が家の同居人を見ていると「生きる」とはどういうことなのか、と言う難しい命題を解くカギが見えてくるようにも思える。もちろん彼らにそんなことを言うと、ゆっくりと小馬鹿にしたように欠伸をしながら布団に入ってしまうだろうが、そんな姿を見ていると、僕には彼らが「生き方」の師匠にも見えて来るのだから、我ながら情けないというか寂しいというか、むしろ恥ずかしささえ感じる。