白い雪の夜

 

 夜の9時を過ぎていたはずだった。僕の帰る時間としてはいつもよりも少し遅かったはずだ。
 職員玄関をでたとき右手の自転車置き場の陰から小さな人影がゆっくりと現れた。
 コートの肩に雪が降り積もっている。
 「せんせい!」
 小さな声だった。
 M子だった。長髪は白くところどころ雪で被われている。
 そう言ってM子は無言で僕を見つめた。
 まだ母親が亡くなって2週間ほどしか経っていなかったはずだ。
 「えっ・・・」
 僕はそう言ったままM子の髪の上の雪を見つめた。
 いつもなら、たぶん、1時間は早く帰宅していたはずだ。M子は1時間以上もこの雪の夜に
 待っていた。

 M子が準夜勤務の日に母が倒れた、母一人娘一人の家庭だった。知り合いから詰所に連絡を受けたM子は上司に相談した。夜の8時過ぎだったと思う。
 「救急車を呼べばいいんじゃない」
 上司が冷淡に言う声が僕には聞こえた。
 まだ准看養成所を出て間もないM子だった。
 「どうしたんだい?」
 僕はM子にたずねた。
 M子は蒼白になって、
 「母が倒れたんです」
 と小声で言った。まだ18歳の娘だった。感情が心の中で居座ったままかのように、事態をどう捉えたらよいのかもわからなかったようだ。
 「当番病院へ救急車で運んでもらったらいいんですよ」
 年増のイワシのような顔をした上司が点滴ビンを持ちながら僕に言った。僕は当直だった。
 M子の両目にやっと涙がにじみ出していた。
 可愛い娘だった。忘年会で踊ったとき、いつまでも僕から離れなかった。僕も結構酔っていたから、周囲の目を気にせずに、最後までM子と一緒だった。
 「僕がいまゆく」
 M子の自宅までは車で5分とはかからない。
 僕は消防に救急車を要請した。そして自分の病院へ運ぶように伝え、すぐにM子と一緒にM子の家にタクシーで向かった。
 ちょうど救急車も着いたところだった。
 意識はなかった。脳出血だと思った。
 「母さん!!」
 M子の中でやっと感情がわき起こったようだった。
 「母一人娘一人の家庭なんです」
 側に付きそう近所の人が、白衣姿の僕に小声で言った。

 「せんせい」
 M子は繰り返した。
 長いまつげにも次々と雪が付き、そして解け、それは涙と区別がつかなかった。
 僕は人目を気にして歩き出した。
 「いつから?」
 僕の問いにM子は答えなかった。もしかしたら2時間以上なのかも知れない。1月の夜は5時過ぎから始まる。
 葬式が済んでまだ10日程だろうか。僕は心の中で考えた。
 まだ未成年だから、親戚の伯父さんが財産管理するという話よ、とか、結構母親は残していたらしいわ、とか、ナース達の間で話題になっていた。
 「せんせい!」
 M子は繰り返した。
 「なに?」
 僕はM子が何を言いたいのか感覚的にはわかっていたが、言葉を聞きたかった。
 「ありがとうございました」
 少し後を歩いていたM子はそう言うと、突然僕に近づき腕を組んできた。
 M子の体温が僕に流れてくるようだった。
 「僕は医者だからね」
 僕は本心とは別に当たり前のことばを吐いたが、M子は何も言わなかった。

 M子に対する興味、すなわち、バンビを思わせる姿態と、誰がみても美形の顔、それは男として独占したいという欲望をかき立てる。
 それと母を失った娘の感性を共有している僕。
 30分くらい夜の郊外を歩いただろうか。
 寒さが感性を支配しだした頃、僕はタクシーを拾った。

 「またね」
 M子の家の前で僕はそう告げた。
 彼女はちょっと悲しそうな表情を見せたが、目元に微笑みを浮かべると僕の手を握ってきた。
 風が全く無く、綿雪がまっすぐに天から落ちてくるような夜だった。
 半年後、M子は病院を辞めた。

 4年ほどしてから結婚したM子は、乳児検診で僕の所にやってくるようになった。
 美形の顔立ちはさらに洗練されて、いつ外来で会っても僕の心をとらえた。
 僕が赤ちゃんの病気の説明をしている間、M子は僕の顔を見つめている。
 
 そのとき、M子の心の中であの夜の光景が往来しているのだろうか?
 それは僕には確かめることの出来ない問いに違いなかった。