涙を流さないで!


十代としか思えないような純白な微笑みを口元に浮かべながら、私の目を見つめながら話を聞き続ける若いママ。
私がはじめてNさんと外来で出会ったとき、それは感動を通り越して、私自身の感性が全て彼女の微笑みの中に吸い込まれて行く思いがあった。座る姿勢も良く、地元の女性とは思えないような言葉遣い。私は里帰りで東京から帰ってきているママか、それとも転勤族でやってきたママと感じた。
どこから?思わずたずねた私に、彼女は口元に一層はっきりとした笑みをうかべながら、この町ですよ、と言ってから、今度は本当に可笑しそうに笑った。側で外来の主任も僕達のやりとりに興味があるのか黙って聞いていた。
この町?僕は、たぶん、信じられないといった顔つきで問い返したと思う。そして、でも訛りががないなぁ、と言いながら、彼女の本当に大きい両目を見つめた。
彼女は私の疑問に気づいたのだろう。小さな声で教えてくれた。
地元でも古い由緒ある商社の社長秘書をしていたという。
僕はその社長のセンスに驚いたが、それよりも絶えず私の顔から視線を話さずに微笑む、その精神的余裕というか、落ち着きに生来のものを感じていた。
まだ21歳という年齢だった。僕にとっては、三ヶ月の子を抱くには不似合いなイメージだった。

それから二、三ヶ月に一度くらいの割合で僕は彼女と外来でデートした。どんな冗談でも彼女は見事にその真意を理解してくれた。そして帰るときには、真顔になって、大丈夫なんですよね、と必ず念をおした。また、今度はいつくるのですか?との問いに僕が、いつでも来て欲しいけど、赤ちゃんはもう来る必要がないないなぁ、と冗談ぽく答えると、ちょっと頬を赤らめて、分かりました、と嬉しそうに返事を返していた。

色々と相談を受けた。ご主人の病気の相談も受けた。そのたびに隣の特診室に入ってもらって話を聞いた。30分くらいは話し込んだから、すぐに外来の待合室に患者がたまって騒がしくなる。30分を過ぎると主任が、トントンと小さな声を出しながらドアを開ける。彼女もユーモラスな性格で、僕と似た世代の女性だったから僕の心の動きを良く捉えてくれていた。
僕の外来診察は非常に速い。3時間で120人は診ていたから、多少外来にたまっとしても一気に患者はいなくなる。だから主任も僕の我が儘、そして彼女の我が儘を大目にみていてくれたのだと思う。

結婚して間もなかった彼女も2年ほどしてから、夫の実家がある2時間はかかる小さな町に引っ越すことになった。
ある日、すでに活発になった子供と一緒に外来にきたとき、それを彼女は告げようとした。子供は単なる風邪だったが、いつもの通り冗談を交えた僕の説明が終わった後、彼女の両目が突然潤みだした。
それを知った主任は子供の手を引くと、向こうで遊んでいようね、と言って、子供の手を引いて点滴室の方へ連れて行った。
隣の部屋に入って座ったとたん、彼女は両目からどんどん涙を流しながら、引っ越すのです、と震える声で言った。
僕は、多分10秒間位は無言で彼女の顔を見つめていたと思う。
それから僕はカルテに書かれている子供の生年月日を見た。
まだ23歳・・・。
僕は、この素直で、感性豊かな若い女性の心の純白さに突然心を惹かれた。
彼女が涙を拭いて、これからも来ます、と言って顔を上げるまでどのくらいの時間がかかったのか僕は覚えてはいないけど、少なくとも主任が、トントンと言いながら入ってこなかったことは確かだ。

引っ越してからも彼女は車を運転して2時間はかかる地から、ただの風邪でも子供を連れてきた。大雪の年末も。
そしてしだいに力強いママに変わっていった。

僕の心の中の彼女は、あのとき涙を流した一人の若い女性としていつまでも存在し続けている。