神様


 土曜日。快晴の朝だ。坂の下の方、港の上は霞んでいる。僕は柴犬のノンタを玄関前に連れ出し門柱につないだ。本当はその辺を連れて歩く方がお互いに健康的なのは分かってはいるのだが、玄関前につないでおくだけでもノンタは満足している。
 通りを歩く人や散歩中の仲間の姿を見つけては喜ぶのだ。僕の方も新聞を読む時間がとれるから一石二鳥ということになる。
 中年になると何でもものぐさになってきている。
 美保子のベッドから出てきたばかりのノンタは大きな欠伸をしながら両前足を伸ばしてストレッチングした。五月はじめの朝の大気がよほど旨いのか鼻づらを空に向けたノンタの胸がゆっくりと膨らんだ。僕もつられたように深呼吸を繰り返した。
 北海道ももうじき初夏だ。
 ――いつもの見張り番ですな。
 とつぜん背後からハスキーがかった声がした。
 振り向くと茶色のベレーをかぶった小太りのおじさんが立っている。白ワイシャツにベレーに合わせたような茶色のチョッキ姿だ。このおじさんは良く見かける。たしか、と思いながらおじさんの後方を見ると、角の消火栓に高々と右後ろ足を上げて小便をしているミニチュアシュナウザーが見えた。引きずっている赤い綱に小便がかかっている。
 ――なかなかいい。顔がりりしいし、尻尾も形がいい。
 おじさんは独り言のように言いながらさかんにノンタをほめた。
 ――おたくのシュナウザーもなかなかですよ。
 僕も返した。通常のミニチュアシュナウザーに比べると体型は大きめで飼い主に似て少し小太りだ。しかしこれも顔つきがなかなか良く、耳を立てて人の顔を見る表情は、豊かな顎髭のせいもあるのだろうが、何か哲学者然とした風貌で、こちらの魂胆が全て見透かされているような思いがする。この犬種はドイツ原産だから僕は内心カントと呼んでいた。
 おじさんは笑いながら後ろを振り向いた。カントはあたりの臭いをかぎながらゆっくりと近づいてきた。ときどき顔を上げてはこちらの様子を観察するのが犬にしては油断ならない。
 ――かれは神様を信じていますからね。
 おじさんは突然訳の分からないことを言った。涼しげな表情だが目は笑っている。
 僕はどう反応して良いか分からなく顔に曖昧な笑いをうかべた。
 ――おたくの柴ちゃんはどうかな?
 おじさんはそう言ってしゃがみこむとノンタの顔を見つめた。ノンタは軽く口をあけて真っ赤な舌の先を見せ、きょとんとした目つきでおじさんを見つめた。
 ――うん、この柴ちゃんも神様を信じているね。
 自信に満ちた言い方をしながらおじさんはノンタの頭を撫でた。ノンタは一回転近く巻き上げた尻尾を左右に二、三回振った。
 ――そうかい。言葉も分かるね。
 おじさんは嬉しそうに言いながら立ち上がった。その足下にカントがゆっくりとやって来た。カントはひとときおじさんの顔を見つめてから、ノンタの鼻面に自分の鼻を近づけた。犬達はお互いに臭いを嗅ぎ合って、つぎに下半身の臭いを確かめ合いはじめた。
 ――おたくのシュナウザーは雄ですか?
 僕は突然喧嘩が始まるのを恐れてたずねた。
 ――大丈夫ですよ。雄同士でも同じ神様を信じているから。
 おじさんはそう言って目を細めると二匹の犬達を見つめた。スエードのチョッキとベレーは同じ材質で手作りのようだ。おしゃれなおじさんだなあ、僕はふと感心した。もう六十才は越えているのだろう。ベレーのはじから白髪が顔をのぞかせている。
 ――信心深い犬はいいですね。僕らに対して哀れみの心を持っている。
 そういっておじさんは少し真面目な顔つきになって僕を見た。
 ――哀れみの心、ですか?
 僕も少し真面目な顔つきになった。
 二匹の犬達は少し離れると並んで通りの方に顔をむけた。シーズーがおばあさんを引っ張りながらやってくるのが見えた。
 ノンタがクウウンと小さな声をあげた。カントはその場で背筋をまっすぐにしてお座りをした。両耳が立っている。
 シーズーはこちらをちらっと見たが、そのまま胸を張っておばあさんを引っ張りながら通り過ぎようとした。
 ――やあ、おはようございます。二、三日見えなかったですね。
 おじさんが声をかけた。
 ――膝がね。
 しわがれた声でそう言うとおばあさんは少し顔をゆがめた。
 ――そう。無理をしなさんな。
 ノンタとカントはシーズーの通り過ぎた方に首を回した。
 ――あのシーズーも神様を信じているね。
 おじさんはまたも自信に満ちた口調でいった。
 ――なぜそんなこと?
 僕はさらに真面目になった。
 ――なぜって?
 おじさんはそう言ってから面白そうに笑った。口元の皮膚が上品なしわをつくった。
 ――邪心がないですね。無心です、何事も。
 なるほど、僕は少し納得した。そしておばあさんとシーズーの後ろ姿を目で追った。向こうの角をシーズーに引かれておば
あさんが曲がるところだった。ノンタとカントもそれをじっと眺めていた。
 ――邪心がないか・・・。
 僕はおじさんの言葉を無意識に反芻した。
 ――桜もあと一週間ですね。こちらのななかまどもいい葉をつけだした。
 おじさんは歩道の脇に植えられた二本の木を感心したように見つめた。僕はおじさんがこれらの木も神様を信じていますね、と言いそうな気がした。なぜなら正しく邪心は感じられなく、無心に葉や花をつけようとしているからだ。
 しかしおじさんは目を細めてななかまどの葉を見つめているだけだった。
 カントが立ち上がりおじさんの足を前足で引っ掻いた。それを見たノンタは再び突き出た鼻面をカントの顔に近づけた。カントは短くカットされた尻尾を軽く数回振った。
 ――そろそろお暇しますか。
 おじさんはそう言いながらノンタの頭をもう一度撫でると、僕に軽く会釈してからゆっくりと背を向けた。カントはやってきたときのように再びあたりの臭いを嗅ぎながらおじさんの後からついていった。
 
 ――その人、宗教家よ。そして犬馬鹿ね。あなたと同じ。
 僕が感心したように美保子に話すと、美保子は可笑しそうに笑った。
 ――宗教家?どこの教団?静かな人だけどなあ。
 僕は意外な美保子の言葉に当惑した。
 ――どこの教団かは知らないけど。
 ――それでどうして宗教家だって分かるんだい?
 ――だってお向かいのおばあちゃんがこの前言っていたもの。
 向かいのおばあちゃん?あの熱心な門徒さんだ。
 ――じゃ門徒さんか?
 妻はふたたび可笑しそうに笑った。
 ――違うのよ。そのおじさん、おばあちゃんに神様を信じていますか?って訊いたのよ。
 僕はおばあちゃんの怒った顔が想像できた。
 ――おばあちゃん、私は門徒です、と言ったんだって。そしたらあのおじさん、その神様を信じているんですか?って訊いたらしいのよ。
 結果は聞かなくても分かった。塩や水はかけられはしなかっただろうが、二度とあのおばあちゃんはおじさんに挨拶などしないだろう。
 ――雰囲気からすると、港の方に大きな建物のあるあの教団じゃないかって。・・・でもうちのノンタが神様を信じているなんて面白いことを言う人ね。
 美保子はそう言ってから改めて考え込んだ。あの教団は犬にも神様がいるなんて説いていたかしら?という顔つきだ。
 ――やはりあの人は宗教家ではないと思うな。
 僕は自分の率直な考えを言った。
 ――宗教家でなくて、なぜ初めての人に、あなたは神様を信じていますか?なんて訊くのかしら。
 美保子は半分真面目な顔つきで言った。
 ――それは宗教家でないからじゃないのかなあ。
 僕も半分真面目な顔でこたえた。
 ――そうかもね。宗教家なら簡単に神様なんて言葉は出すはずないわね。
 僕はうなずいた。正しく僕の疑問と同じだった。だから僕はあのおじさんを宗教家とは思っていなかったのだ。
 しかし・・・、あの別れのときのおじさんの言葉を美保子に言った方が良いかどうか迷った。言えばさらに美保子は混乱してしまいそうだった。

 僕は立ち去ろうとしたおじさんを呼び止めたのだ。
 ――あのう。
 おじさんはゆっくりと振り向いた。なぜかカントも足を止めて振り向いた。見送っていたノンタが巻き上げた尻尾を振った。
 僕の顔を見ておじさんが微笑んだ。
 ――おじさんも神様を?
 僕は思いきってたずねてみた。それを聞いたおじさんは優しそうな笑いを目元に浮かべ、
 ――信じるも信じないも、私は彼の神様に守られているんですよ。あなただってそうじゃないですか。
 と言って足下のカントを見つめた。それからク、ク、と小さな笑い声をもらしノンタに向かって軽く手を振ると去っていったのだ。カントは一度だけ後ろを振り向いていた。