「美しい顔」
  エピローグから



   <tarunai 講談社版>





                             JSバッハ  イギリス組曲第六番


 
(エピローグ)

 三月はじめに杉宮助教授から当麻に手紙が届いた。杉宮らしい簡潔な手紙だった。
 岡山の病院を紹介するから行かないか?というものだった。小児専門の県立病院だった。学会でも知られた病院だ。そして、田舎も良いが、今のお前さんに必要なのは、もっと医学が出来る場所ではないかい?と結んであった。
 当麻は恩師の心遣いが嬉しかった。必要な用件以外何も書いて無かったが、行間にあの杉宮の優しさが滲んでいた。遠い岡山の病院を紹介してくれた心遣いが繊細に思えた。
 当麻は杉宮の勧めに従って、岡山に向かいたい旨の返事を書いた。そして向こうで新しい自分の人生を開始するかも知れないと付け加えた。
 
 岡山に行くことを決めた週末に、当麻は麻矢子をドライブに誘った。利尻富士を見に行きたかったのだ。何度も見た利尻富士だったが、麻矢子と一緒に眺めたことはなかった。あれ以来ときどき旭川で会ったが、麻矢子も当麻も過去の話は避けた。
 しかし過去の話を避け続ける限り、前方に向かって行けないのは明らかだった。
 麻矢子は朝一番の列車で豊富町にやってきた。フードの付いた白いコートの麻矢子は、少女のように美しく輝いていた。笑った時にあのえくぼが両頬に浮かんだ。
 三月に入っても北の道はいまだ凍てつき、光景は時を止めたように存在していた。当麻は車をゆっくりと海に向かって走らせた。
 車の前方に微かにかかった靄の中に、利尻富士が顔を出してきた。時々晴天の空から小さな粉雪が舞ってきた。
 ――見えた・・・。
 当麻は満足したようにつぶやいた。
 助手席の麻矢子が頷いたようだった。
 海沿いの道路の駐車帯に当麻は車を停めた。利尻富士と書いた大きな看板があった。
 当麻は車から降りた。頬が凍るような大気だった。快晴の空から注がれる光には熱が失われていた。
 雪の上に立った当麻は利尻富士を見つめた。
 何分経ったろうか。気が付くと横に麻矢子も立っていた。その視線は同じように利尻富士に向けられていた。
 しばらくして当麻がいった。
 ――健太君、何も出来なくて本当にごめん。でもこれから、・・・先生はもっとがんばる。
 麻矢子が当麻の横顔を見つめた。手袋を脱ぐと、当麻の頬を伝わる涙に、静かに自分の熱い手をあてた。
 ――ごめんなさい。
 麻矢子はつぶやいた。
 ――私は我が儘だった・・・。
 当麻は驚いたように麻矢子の顔を見た。
 ――あなたは健太に本当に尽くしてくれたわ。あなただけが頼りだった。私はあなたに甘えていたわ。そして我が儘をぶつけていた。・・・今私は健太の前で謝る。本当にごめんなさい。
 そういった麻矢子の身体は支えを失ったかのように崩れそうになった。当麻は両手で麻矢子をささえた。二人の吐く白い息が空間の中で解け合った。
 ――僕は間違いなくあの利尻富士の奥に健太君の顔を見た。あの元気で悪戯っぽい顔をした健太君の顔を見た。美しい顔だった。そして今、あなたの本当の美しい顔も見た。僕は、自分の人間としての原点に立てたように思う。
 当麻の言葉は凍てつく大気の中に熱を持って拡がった。麻矢子は当麻の顔を見つめた。
 ――たぶん・・・。
 当麻の言葉は続いた。
 ――人間としての顔と、医師としての顔は本当は同じなのだと僕は思う。僕も美しくなりたい。本当に今そう思っています。
 当麻はもっともっと言葉を続けたかった。しかし言葉は大気に同化するように消えてしまい、殻を失ったあつい熱だけが当麻の身体から麻矢子に伝わった。
 利尻富士の頂が遅い春の到来を告げるように白い輝きを発しだしていた。雪が解けだし、緑の息吹が光景を変えるまでにまだしばしの時の流れが必要だった。このサロベツの原野は、もう三ヶ月もすると辺り一面お花畑にかわっていく。
 ――僕は岡山にゆきます。
 当麻は利尻富士を背に麻矢子を見つめた。麻矢子は頷いたように見えた。その両瞳の奥に当麻は自分の精一杯のエネルギーを注ぎ込もうとした。
 ――向こうで待っています。あなたの気持ちの整理がつくまで待ち続けます。
 麻矢子はゆっくりと頷いた。
 ――健太の一周忌が済んだら・・・。
 そういった麻矢子は当麻から離れると、まだ白一色のサロベツ原野に向かって歩きだした。
 ――自然って不思議だと思うわ。季節によって顔を変える。でもその顔はいつも美しい。これが完全なの、というようにいつも美しいわ。羨ましいくらい。
 振り返った麻矢子の口元に、はにかんだような微笑みが浮かんだ。
 ――人を愛することもすごく美しいことだと思うわ。きっと自然に負けないくらい美しいことのような気がする。自然のように季節が変わっても、顔が変わっても・・・愛せられるはず。
 麻矢子はそういうとサロベツ原野に向かう車道をゆっくりと歩き出した。当麻は麻矢子の後ろ姿を見つめた。白い原野の中に麻矢子の白いコートが同化していくような錯覚を覚えた。
 それは余りにも美しすぎた。
 その時、当麻の脳裏を多くの光景が走馬燈のようにゆっくりと通り過ぎた。
 その中で多くの顔が光り輝いていた。
 当麻は振り返った。利尻富士の頂を確かめるように見つめた。そしてその上、薄く雲が広がった青空に視界を移していった。。
 当麻秀人は大きく頷くと車に乗った。そして小さくなった麻矢子の姿をゆっくりと追いはじめた。
 
(了)

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